足尾銅山 著書 小野崎 敏
足尾銅山 著書 小野崎 敏は、私の叔父に当たる。
足尾の歴史を多くの方に紹介したいと、叔父に了解をえてweb上で内容を紹介する。

はじめに
私が生まれて初めて見た写真は、おそらく祖父・一徳の肖像写真であろう。
私は昭和9年(1934)に、足尾の小野崎写真館で生まれた。その生家のニ階にある客間には、額縁のなかに入った大きな肖像写真が二つ並んでかざってあった。祖父・一徳の写真と、もうひとつは古河市兵衛のそれであった。記憶はいつごろから始まるのかわからないが、少年期からこの二葉の写真にかこまれて育っていった。家は足尾北部、古河橋ちかくの赤倉商店街の中央に位置し、製錬所の煙突がすぐちかくにあって、亜硫酸ガスの臭気が絶えることはなかった。ちかくの山は禿げ山ばかりだったが、子供たちには格好の遊び場だった。
一徳は昭和4年に没したので私は生前の出会いはないが、一徳の写した写真については時々見ることはあった。
昭和30年ごろの学生時代に、古書店で『風俗画報』増刊号の「足尾銅山図曾」を求め、そこに60枚あまり掲載されていた一徳の写真と出会った。なかには初めて見たものも多く、探し出して足尾に持ち帰りたいという志を立てて、以来、収集を始めることにした。それから50年、今までに収集したもの、借用して複写したものを合算すると手元の写真類は約1000枚になる。
黄金の国ジパングの伝説はさておき、江戸から明治にかけての日本は世界有数の銅生産国であり、最先端の金属製錬技術をもっていた。江戸期においても、生産された銅は輸出され、外貨獲得の重要な資源であった。特に明治期に入り、銅は殖産興業・富国強兵という時流のなかで生産を拡大し、日露戦争が終わった明治40年ごろには国内生産4万トンのうち3万トンが輸出され、その外貨で機械・武器などを購入して日本の近代化は進められたのである。足尾にも生産のため次々と先進技術が導入され一大産業都市と化したが、反面、鉱害や労働運動など多くの問題が出てくる。
小野崎一徳は明治16年(1883)から昭和4年まで、約45年間にわたり、足尾銅山の古河御用写真師として変転する銅山の内部と周辺を撮影した。その内容は採鉱・選鉱・製錬などの現場だけでなく、森林伐採や工作・土木分野もあり、鉱山や町の行事・冠婚葬祭、一般写真それに公害防止工事の現場記録など多岐にわたっている。
レンズを通して、メカニックな記録として残された一連の写真は、過ぎ去った時間を保存し、歴史の過程を検証する証拠物件となり得る。事実、100年間あまり埋もれていた一徳の写真を並べてみると、単に足尾銅山の歴史のみならず、明治・大正期における私どもの先輩たちによる国づくりの息吹が聞こえてくる。これらを読み解くことによって、従来ともすれば文献資料を基本として語られてきた多くの先人たちの発言や文章の情報について、その是非を確認することもできるのではなかろうか。
また、昨今、日本の近代化を支えた鉱山などの産業遺産を保存し、世界遺産として登録する活動が各地で盛んになっている。足尾には、日本の産業革命の先駆けとなった沢山の資産が残っている。また、日本で最初に実施された公害防止関連の遺産もある。本年秋、地元市民が中心となって「足尾銅山の世界遺産登録を考える会」が発足し、その準備活動も始まった。一徳の写真は、それら産業遺産の往時の様態を補完する記念写真として十分に活用できるものである。
そうした問題提起も含めて、本書をまとめてみた。
これまでに収集・複写された小野崎一徳の写真帖などは、次の通りである。
『足尾銅山古河写真帖』―明治20年以前―7枚
『足尾銅山写真帖』ー明治20年代―50枚
『足尾銅山写真集』ー第4回内国勧業博覧会出品―明治28年以前―29枚
『古河鉱業写真帖』―ベルギー・リージュ万博出品ー明治38年以前―13枚
『足尾銅山写真帖』―鉱毒予防工事現場写真―明治30年―64枚
(根利山関連写真)―明治〜昭和初年―90枚
『古河鉱業写真帖』―大正天皇日光行幸記念ー大正2年ごろー 6枚
『海江田侍従来山記念写真帖』―大正7年ごろー36枚
『社長来山記念写真帖』―大正14年ごろー46枚
『社長来山記念写真帖』―大正初年ごろー22枚
(単品写真)―明治~大正期―約100枚
(写真絵葉書)―明治~昭和初年―約600枚