当時の足尾は日本の最先端の技術が移入された産業革命と近代化の先駆けであり、山のなかに電車やケーブルカーも走る西洋風の「鉱都」を多くの人が見たがった。
また鉱害が政治問題となり、労働争議も起こり、新聞などのマスコミでも注目を集めていた。さらに世界的観光地の日光が隣にあり、観光客が押し寄せたのである。
明治44年、芥川龍之介(1892~1927)は「日光小品」を発表したが、そのなかで、彼は足尾の印象を次のように書いている。
「中禅寺から足尾の町に行く路がまだ古河橋の所へ来ない所に、川に沿うた、あばら屋の一ならびがある。石をのせた屋根、こまいの露の壁、仆れかかった垣根と垣根に竿を渡しておしめやら汚れた青い毛布やらが薄い日の光に干してある」
これは、府立三中の四年生時代の芥川が修学旅行で足尾を訪れた時の印象をまとめたものである。
一行は2年前の42年10月26日から3日間のスケジュールで、日光から松木を通って足尾に入った。ちょうど紅葉の季節である。現在のような形の修学旅行は明治19年の東京師範学校に始まったといわれるが、明治後半から昭和初期にかけて、関東地方の修学旅行では芥川たちと同じく名所・日光を経由して産業都市・足尾を見学するのが定番のコースであった。
芥川たちは製錬所も見学していて、「煤びた胸のはだけたのや、しみだらけの胸のはだけたのや、中には裸体で濡菰を袈裟の様に肩からかけたのが、反射炉のまっ赤な光をたたえた傍に動いている。機械の運転する響、職工の大きな掛声、薄暗い工場の中に雑然として聞こえる此等の音」と、工場内の様子にも触れている。
古河としても工場や抗内の見学を歓迎していた。ひとつには鉱害批判に対する緩和策だったのかもしれないが、ほかの目的もあったようだ。古河は従業員の共済のために共済義会という組織をもっていた。その資金のひとつとして見学希望者から規定の縦覧料をとっていたが、絵葉書も独自に一徳につくらせて販売し、それも収入源としていたのである。そのような事情もあって、一徳の写真が古河側の了解のうえで、多数絵葉書に印刷されたのでなかろうか。
絵葉書が日本で流通し始めるのは、明治33年に郵便法が改制されて私製葉書の使用が可能になったことによる。さらに38年、39年ごろには、逓信省が発行した日露戦争の戦勝記念絵葉書のブームが起こった。各地の名所旧跡の絵葉書を旅先から送るという慣習もこのころにでき、旅行の土産品のひとつとして出回るようになったのである。
カメラが現在のように普及していない時代の媒体として、写真絵葉書の役割は大きかった。足尾銅山の絵葉書も、旅行者や見学者を通して全国に広まったのであろう。