小野崎一徳は本名を蔵吉といい、文久元年(1861)、岐阜大垣藩士・小野崎五右衛門蔵男の子として生まれた。大垣藩『座右秘鑑』のよると、小野崎家の石高は200石で旗奉行・藩主側役の要職をつとめていた。藩は戊辰戦争では官軍方で参戦した。版籍奉還の明治2年(1869)、蔵男は藩の権大参事となり、明治4年の廃藩置県で当時の初代教育長になった。
幕末期の大垣藩は先進性のある藩で、蘭学導入にも積極的であって、多くの志士を長崎などに遊学させていた。嘉永元年(1848)にオランダ経由で長崎に到着した写真技術は、それから5年後の万延年間(1860~61)には同藩藩士の蘭学者・飯沼慾齋(よくさい)が長崎から持ち帰り、藩主・戸田氏政に献上している。また、嘉永5年のペリー艦隊に同行した写真家・ブラウンによって下田に入ってきた写真技術も、大垣藩人夫頭として現地に赴いた久世喜弘(くぜよしひろ)が翌6年に大垣に伝えている。 ちなみに久世は、のちに大垣藩砲術取調役となり、明治新政府では造幣局判事として新貨幣の形を現在のような円形にすること、江戸時代の「朱分両」に代わる価名を定めることを建議。さらに鉱山大祐もつとめた。

一徳が愛用したカメラとレンズ。