明治3年、小野崎蔵男は権大参事として東京駐在となった。その時、久世喜弘の門下生である塩谷礼二(1845~1910)が写真術を東京で学びたいという希望を聞き、従僕の一人に加えて上京する。このことが、のちに蔵男の息子・蔵吉を写真に結びつける契機となった。
下田から入ってきた写真術の元祖・下岡蓮杖(れんじょう))に学んだ塩谷は、明治4年には東京・芝宇田川町に写真館を開業し、翌年、新興繁華街である浅草奥山に店を移した。塩谷は開業に際して、自身の出身地・大垣江崎村の名をとって江崎礼二と改姓し、江崎写真館は東京で一流の写真館として名声を得る。
新職業の写真師は、明治10年には京浜地区だけで130店あまり、特に浅草は激戦地で40軒近くが営業したほどで、ハイカラを代表する職業として繁盛していたのである。
当時の写真機材は高価で技術の習得にも時間を要するが、できあがった写真は多くの特権者たちにもてはやされた。
一方、蔵男は大垣に帰り県務に復帰するが、江崎礼二の成功もあり、写真の将来性を見込んで、家屋敷が火事で焼失した明治9年に藩校の学生だった息子・蔵吉を江崎写真館に送ってその門下生とした。
写真師・小野崎蔵吉一徳の誕生である。

明治20年前後に片柳孝造が撮影した本口抗口。画面左手に立って撮影者の方を見ているのが、若き日の一徳ではないかといわれている。萩原義弘蔵。